子供が死んだのに、母である私が生きている不快感
桜空の死んでしまったとき
何で変わってあげられないのだろうと思いました。
桜空は私が産んだ子です。
当然、私が先に死ぬべきです。
なんで目の前に、私が産んだ子が死んでいるのだろう。
病気の桜空を産んだのも私。
きょうだい3人は元気に産んであげることができたのに、
なんで桜空は病気だったのだろう。
それも1つの病気でない、いくつもの病気を抱えているのだろう。
何で運命は桜空をこんなにも苦しめるのだろう。
「お母さん、あなたのせいではないんです」
みんな、こう言う。
私は助産師。私もそう言っていた。
だけど、当事者になると違う。
私の身体で生命が宿り、育ち、産まれてきた子、桜空がたくさんの病気を持っていた。
それは、もう母である私の責任でしかない。
目の前で、死んでしまって大きなベッドに寝かされている桜空。
私は叫び泣いた。
「ごめんね、ごめんね、たくさん頑張ってくれたのにごめんね。」
人が亡くなったとき、できるだけプラスな言葉を掛けたいと思っている。
「ありがとう」と言いたい。
おじいちゃん、おばあちゃんが亡くなったときは
たくさん「ありがとう」の言葉を言えた。
だけど、我が子には言えなかった。
桜空へのたくさんの「ごめん」
「たくさんの病気を持たせてごめん」
「元気に産んであげられなくてごめん」
それでも明るい未来はきっとあると信じて桜空も私たち家族も頑張った、頑張らせてしまったのに
「こんな結果になってごめん」
みんなで死んでしまいたい、天国という世界があるならその世界で家族6人で幸せに生きれば良い、そう思うのに死ぬことはできない、私は子供や夫や自分を殺せない。
それは、桜空が私に命の尊さを教えてくれたから。
どうせ、人間は死ぬ。
早かれ、遅かれ、死ぬ。
桜空、独りぼっちで逝かせてごめん。ママたちもいつか逝くから、待っていてね。
死ぬって何だろう、生きるって何だろう
何のために生まれるんだろう
生かされた自分は何のために生きれば良いのだろう
生かされた使命は何だろう
何を余生でするべきなんだろう
桜空がいなくなったときから、母である私は本当に様々なことを考え生きてきました。
桜空のような医療ケア児を育てる大変さ、24時間付き添い入院の難しさ…
私は経験してわかったことを伝えなければ…
とも思いましたが、結局人は自分が直面しないとわからない。
伝えても響かないし、変えたいと思うことは簡単には変わらない。
それでも、私が経験したことや悩んだことを残すことで、
同じように病気の親になった人の心を少しでも支えることができるかもしれない。
私はいつか死ぬけれど、私が残したブログはサーバー代などのお金を払えさえすれば残る。
「じゃぁ残したい、やってみよう」と思い、ブログを始めました。
このブログは、私たち家族が生きた証のようなものかもしれません。
母である自分が生き、楽しむことの罪悪感
桜空が亡くなった後、母である自分が生きていること、楽しいことをしていることの
罪悪感を感じることがありました。
私は笑って良いのか?そもそも、ちゃんと笑えているのか?
笑っているとき、楽しいとき、いつも思っていることは
「桜空がいたらもっと楽しいし最高なのに」ということです。
自分の人生について考える
私もいつか死ぬ、大切なのは生きている今をどう生きるかです。
私が死ぬときにどうありたいか考えたとき、
「大切な人を愛し、大切な人から愛され、思い出とともに心置きなく桜空がいる場所に逝くこと」
この答えでした。
心置きなく桜空のいる場所に逝くその日まで、桜空の幸せを願いながら、限りある人生を楽しみたいと思います。
家族旅行など体験ブログについて
家族旅行など、私が経験したこともブログに残していきます。
誰かがこのブログを見て
「せっかくの一度きりの人生、私も人生楽しもう」
と思ってもらえると嬉しいです。