【やっぱり無理】産んでわかった障害児の親の苦悩と孤独|永遠看護・介護

悲しい事件

2025年1月 福岡市で医療的ケア児の7歳の長女の人工呼吸器を外して殺害したとして
母親が殺人罪に問われる事件が起きました。

このようなニュースを聞くと自分のことのようにつらく、悲しくなります。
健康に産まれた子供であっても、悲しいニュースはあります。
望まない妊娠で遺棄されたり、虐待されたり…
しかし、病児や障害児の子育ては、健康に産まれた子供以上の大変さがあります。
それは、「子育て」の部分よりも「看護・介護」の部分が多く、親の責任や負担が大きいためです。

この生活は何年続くのだろう…

「病気や障害があるにも関わらず、頑張って産まれてきてくれた我が子。
頑張って生きる我が子の姿に心打たれ、我が子の生命力を信じ、
母として我が子を支えないわけにはいかない」

落胆したり、やっぱり我が子のために頑張ろうと思い直したり…
面会にも通い、退院後は一生懸命に看護・介護します。
しかし、親も人間です。
医療的ケア児である子供中心の生活が何年も続き、
他のきょうだいや自分のことは後回し、
生きるために毎日決まった看護や介護のスケジュールをこなします。
これは「育児」ではなく、「仕事」です。
育児でなく、仕事と化したことを何年もしていると
生活の質は下がる一方、「自分のため」の時間なんて皆無です。
自分の幸せは「我が子が生きていること」と言い聞かせ、努力しますが
ふと我に返るとこう思うのです。
「この生活が何年続くのだろう…」

やっぱり無理…

毎日の看護・介護はしんどい…
だけどこの子には自分しかいない、頑張らないと…
やっぱりしんどい、疲れた…

この感情を何回も何回も繰り返しながら、医療的ケア児の親は生きています。
しかし、突然気持ちはプツっと切れる。
「やっぱり無理、もう無理…」

当事者にはわかる、母の気持ち

何年も頑張った、努力した、その結果の「やっぱり無理…」という限界の心の声。
微かな夢や希望を持って子育てしていても、
努力が報われない、努力と結果が結びつかないのが病児や障害児の子育てです。

「こんなにもしんどい思いをして頑張らせているのに、現状は良くならない」
「このまま頑張らせることは、ただの親のエゴなのか?」
「元気に産むことができなくて申し訳ない。なんでこんなことになったんだろう」
「結局、自分が育てなければ誰も育ててはくれない。入れる施設はない」

前を向けず、良くないことを考えてしまう気持ちが私には痛い程にわかります。
「社会で子供を育てよう」とよく言いますが、目が向けられているのは健常児です。
病児や障害児の家族は、令和の今の時代も昭和から全く変化のない別の世界にいました。
私は当事者になったことで初めて知りました。

求められる親の付き添い入院

病気があっても、障害があっても可愛い我が子です。
もちろん病気の我が子に付き添い、支え、一緒にいたいです。
しかし、24時間、毎日の付き添いの強制を求められることには無理があります
プライバシーのない環境で、活動も病院内と制限されるため、自分は何か悪いことをしてこんな生活になったのかと思えてきます。
我が子は医療ケアもたくさんあったため、吸引、吸入をし、
胃ろう注入中にチューブを触らないようずっと見ていたり、
点滴中はチューブに注意し子供が移動することを見守らなければならなかったり、
点滴が入っている部分をひっぱるため阻止したり、育児でなく看護をしている状況です。
この生活が数日であれば頑張れますが、数か月で先も見えないとなると精神的にも限界がきます。また、きょうだいがいたため、想像を絶する大変さと精神的苦痛でした。

病院に助けを求めても入院はさせてくれる、治療はしてくれるが
付き添いは絶対で母が休める時間はなく、
付き添いを日中のみにしてほしいと相談した際も
看護師長から「みんなしてもらっているので、絶対ですので…」との返答で
医療職の方さえも寄り添ってはくれず、結局他人事なのだと悟りました。

7年間、我が子の看護を頑張った母の限界

病児や障害児を出産した母親の人生は絶対に変わります
病気や障害の程度が重度であれば、尚更です。

きっと、この事件のお母さんは責任感の強いお母さんだと思います。
むしろ、真面目なお母さんだったのだと思うのです。
「放棄することはできない、私しかいない」
これが7年間続けば、正常な判断ができなくなります。
縛られる時間が長くなれば長くなるほど、人間の感情は狂っていきます。
我が子だからこそ、我が子の未来も心配します。
自分が死んだ後はこの子はどうなるのか、もちろん身内には頼めない。
しかし、入所できるような施設は空きがない、お金も必要…
心配や不安がまた母を苦しめ、よりネガティブになり正常な思考ができなくなる。
その結果起きた事件なのではないかと、同じ人工呼吸器を使用していた医療ケア児の母として思います。

医療ケア児の増加

医療の進歩とともに、医療ケア児は増加しています。
もう他人事と考えている場合ではありません。
自分の子供の赤ちゃんが医療ケア児になる可能性は大いにあります。

「助けない」ではない、「自然な出生の選択」も可能に

動物であれば、赤ちゃんを産み、赤ちゃんに生命に関わる大きな問題があった場合、
生きられれない子は自然に亡くなります。
子供の病気や障害が重度であった場合、
自然な出生を選択できるようにしても良いのではないかと私は思うのです。

「助けることが正」という考えも間違っていると思います。
なぜなら、子供を助けた後の生活が保障されているわけではないと知ったからです。
助けるのであれば、助けた後の家族への社会的サポートの充実は必須だと思います。

延命について考える

医療によって、我が子は2年2ヶ月を生かせていただきました。心から感謝しています。

しかし、本来、私は子供が医療ケア児となった場合に、
「気管切開や胃ろうなどは受けたい、しかし人工呼吸器がないと生きられない子供であった場合は諦める、人工呼吸器だけは使用しない」と決めていました。
しかし、手術が必要で挿管し人工呼吸器装着となり、術後より人工呼吸器が外せなくなった場合、
それはどのように判断していくのでしょうか。

術後、人工呼吸器の設定を下げることができず、
医師に「人工呼吸器を外して下さい、と私たち両親が言った場合、それは可能なのでしょうか」と尋ねたところ
「それはできません」との返答でした。

医療ケア児の増加、高齢化社会の今、「延命」について今一度考える時期なのかもしれません。

同じ事件を起こさないために

財源には限度があるということは理解しています。
しかし、みな「元気な赤ちゃんを産み育てること」を想定して赤ちゃんを望みます。
もし、産まれた赤ちゃんが重度の病気や障害があった場合、
いつでも入院し医療が受けられるように正社員の保育士や子育て経験のある職員を常駐するようにしたり、子供が病児であっても障害児であっても親が経済状況を変えることなく仕事できるような社会にする必要があると思っています。

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